2016.8.6 hiroshima
8.6。広島。いつもの朝。
71年前のあの日もいつもと変わらぬ朝を迎えていたのだろう。
市電が音を鳴らし走り抜け、何気ない会話が交わされていただろう。
8:15。
フラッシュのような強い光線と爆音。まさにそれは「ピカドン」と表現されている。原子爆弾。
キノコ雲に包まれた町は真っ暗で、音がまったく聞こえない世界だったという。想像のできない、いや、想像したくもない光景である。
広島平和祈念式典にいってきた。
暑い。蝉の鳴き声が鳴りやまない。
それだけ緑の木々が生えているということでしょう。71年前。ここに原子爆弾が落ちたとは想像しづらい。
こども代表の“平和への誓い”が心に刺さる。
「私たちには、被爆者から託された声を伝える責任があるのです。」
安倍氏の記憶に残らない定型文のスピーチも、難しい言葉も、そんなものは何一ついらないのだ。
原爆は卑劣だ。戦争は恐ろしい。同じ過ちを繰り返さない。ただそれだけではなかろうか。
原爆が落とされた翌日。この川には多くの死体が浮いており、うめき声や助けを呼ぶ声が微かに聞こえたらしい。
身内すら助けることができない。もちろん他人を助ける術も気力もないのだ。見て見ぬふりをするしかない。
今でも“その時”のことを悔やんでいる方は多い。自責の念に駆られるという。記憶からは消えない。まだ戦争は終わってない、と驚かされた。
この上空で爆発した原子爆弾。そこにも木々は生きている。鮮やかな花を咲かせていた。
「爆発から一秒あとの火の玉の温度は摂氏一万二千度じゃ。(中略) 頭のすぐ上に太陽が二つ、一秒から二秒のあいだ並んで出よったけえ」
—— 井上ひさし『父と暮せば』(新潮文庫)
灼けるのではなく溶けるのだ。むごい。
人間がつくりあげた「人工の太陽」と表現をされている方もいた。
原爆ドームがやけに小さく見える。
今や広島には多くのビルが建ち並んでいる。
時代の変化。たぶん違う。原爆で破壊される前の広島は栄えていたのだ。賑わっていたのだ。多くの建物が建ち並んでいたはずだ。
しかし原爆に耐えて残った建物は当時、積み木のように見えたらしい。
海外のカメラクルーも多かった。
オバマ氏が発していた「連帯」という言葉のとおり、やはり広島や長崎から、そして日本から発信していかなければならない。
黒い雨は生ぬるく、機械油のような臭いだったという。
草履越しに伝わってきた地面の熱さ。
立ちこめていた異臭。
真夜中のような昼間の静けさ。自分の呼吸や歩いている音がやけに大きく聞こえたという。
写真からは想像することのできない音。
モノクロからは想像することのできない色。
あまりに日常とかけ離れていて、想像しづらいことが、
「受け継ぐ」ということを拒んできた気がする。
だからこそ「今、住んでいる街が数秒のうちに無くなってしまうことを想像してほしい」と、とある被爆者の方がそう仰っていた。
広島に住むようになって、何度か被爆者のお話を聞いた。
被爆者が目の当たりにした生々しさを、経験していない自分たちが伝えるのは難しい。
誰の目にも止まらないようなブログだけれど、自己満足かも知れないけれど、それでも、何かが誰かに伝わればと思って綴ってみました。
かつて多くの命が奪われ、多くの命を奪ってきた日本、だからこそ、同じ過ちを犯してはならない。繰り返してはならない。
戦争を知らない私。
平和な世の中しか知らない私。
これまでも、これからも、そしていつまでもそうでなければならない。